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弥勒とおなじ [『末燈鈔』を読む(その43)]

(4)弥勒とおなじ

 それにとどまりません、信心をえた人は「弥勒とおなじ」と言います。補処の弥勒(ふしょのみろく)ということばが出てきますが、補処とは一生補処の略で、この一生を終えますと仏所を補って仏となる位のことです。弥勒はいま兜率天(とそつてん)にいて菩薩の修行をしているのですが、五十六億七千万年の後に釈迦の後の仏となるとされます(インド人の時間感覚は途方もありません)。
 弥勒と言えば、奈良・中宮寺や京都・広隆寺の半跏思惟像があまりに有名です。そのご尊顔を拝しますと、ささくれ立っていたこころも穏やかに落ち着くような、そんな素晴らしいお姿です。弥勒はあくまで菩薩ですが、弥勒仏とよばれるように、もうすでに仏としての扱いを受けています。
 信心をえた人は、その弥勒とおなじだというのですから、なんか、とてもおこがましい感じにならざるをえません。
 弥勒は菩薩で、いまだ仏ではありませんが、もう仏にひとしい。信心をえた人も、もう仏になることが約束されているのですから、仏にひとしい。したがって信心をえた人は弥勒とおなじだということです。「ひとしい」と「おなじ」が使い分けられていることに注意が必要です。信心をえた人は弥勒と「おなじ」ですが、決して仏と「おなじ」ではなく、ただ「ひとしい」だけです。
 それにしても、仏と「ひとしく」、弥勒と「おなじ」という感覚はなかなかなじめるものではありません。しかしそれが「よこさまに超える」ということでしょう。親鸞は他力をあらわすことばとしてこの「横超」をよく使います。その反対が「たてさまに出る(竪出)」で、目の前に続く階段を一段一段上がっていくという自力のイメージです。それに対して横超は下の階段にいたはずなのに、ふと気がつくともうすでに最上段にいるというイメージで、これが他力です。


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