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『末燈鈔』を読む(その44) ブログトップ

第3通第2段 [『末燈鈔』を読む(その44)]

(5)第3通第2段

 さて『大経』には「次如弥勒(しにょみろく)」とはまふすなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひはまふすなり。しかれば弥勒におなじくらゐなれば、正定聚のひとは如来とひとしともまふすなり。浄土の真実信心のひとは、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こゝろはすでに如来とひとしければ、如来とひとしとまふすこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心さだまりてあるべきにならせたまふによりて、三会(さんえ)のあかつきとまふすなり。浄土真実のひとも、このこゝろをこゝろうべきなり。光明寺の和尚の『般舟讃(はんじゅさん)』には、信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す(こす)、と釈したまへり。居すといふは、浄土に信心のひとのこゝろつねにゐたりといふこゝろなり。これは弥勒とおなじといふことをまふすなり。これは等正覚を弥勒とおなじとまふすによりて、信心のひとは如来とひとしとまふすこゝろなり。

 (現代語訳)さて、『大無量寿経』には「(不退の菩薩は)弥勒につづくもの」と言われています。弥勒はすでに仏に近い存在ですから、諸宗で弥勒仏と呼びならわしています。このように正定聚の人は弥勒とおなじ位ですから、如来とひとしいとも言うのです。浄土の真実の信心を得た人は、その身こそ浅ましく不浄で悪をなす身ですが、その心は如来とひとしいのですから、如来とひとしいと言うこともあるのだとご承知になってください。弥勒はすでに無上の悟りに至ることが定まっているのですから、「竜華樹(りゅうげじゅ)のもとで三回の説法をするあかつきには」と言うのです。浄土の真実の信心を得た人も同じだと心得なければなりません。光明寺の和尚・善導大師は『般舟讃』の中で、「信心を得た人は、その心はすでにつねに浄土に居す」と教えてくださっています。「居す」というのは、信心の人の心は浄土につねにいるということです。これは弥勒と同じということを言っているのです。これは等正覚を弥勒とおなじと言うことによって、信心の人は如来とひとしいと言っているのです。


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