So-net無料ブログ作成
検索選択
『末燈鈔』を読む(その48) ブログトップ

境界人 [『末燈鈔』を読む(その48)]

(9)境界人

 あるいはこんなふうに考えることもできます。青年は子どもと大人の境界にいて、まだ大人ではありませんが、もう子どもではありません。それを青年は子どもでもあり、大人でもあると言うことができるでしょう。子ども的なところもあり、大人らしいところもあるのですから。
 また、日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれた二世の子どもは、日本人ではありませんがアメリカ人とも言えません。それを、二世の子どもは日本人でもあり、アメリカ人でもあるということもできます。その子には日本人的な面もあり、アメリカ人的な面もあるのです。
 突きつめますと、ぼくらはみな境界人です。父親的な面と母親的な面の双方を持っているのですから。
 以前こんなことを考えたことがあります。おたまじゃくしは蛙の子と言われますが、似ても似つかぬ姿かたちです。でもおたまじゃくしに足が生え、尻尾がとれて蛙になる。さて、では、おたまじゃくしは蛙というべきか、それとも蛙ではないというべきか。姿かたちからしますと、蛙ではないと言わなければなりませんが、必ず蛙になるのですから、本質的には(もともとは)蛙であると言うべきでしょう。
 おたまじゃくしは「いまだ」蛙ではありませんが、しかし「もうすでに」蛙であるということです。
 二河白道に戻りますと、「来たれ、救おう」の声が聞こえて白道に一歩踏み出した人は、すでに穢土から離れたのですが、まだ浄土に着いたわけではありません。それを言い換えますと、「まだ」穢土にいながら、「すでに」浄土にいるのです。それは矛盾だと言われても、その矛盾を現に生きているのです。それが現生正定聚ということです。「この世での往生」ということです。


『末燈鈔』を読む(その48) ブログトップ