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第17の願 [『末燈鈔』を読む(その50)]

(11)第17の願

 性信房と真仏房に宛てて、信心を喜ぶ人は「如来とひとしい」という同じ内容の手紙を書き送っているということは、当時、東国においてこの点について疑問が広がり、「如来にひとしいなどと考えていいのでしょうか」という質問が寄せられたものと思われます。そこで親鸞は経典にもちゃんとこう書かれていますよ、と安心させているのです。
 上げられているのは『華厳経』からそのものずばりの「如来とひとし」の文、そして『無量寿経』から「わがよき親友」の文、さらには第17願とその成就文の三つです。前二者は説明の必要がありませんが、第17願については、どうしてそれが「如来とひとしい」ことの根拠になるのか、直ちには見えてきません。
 第17願については、以前話題にしました(2章-14・15)。諸仏称名の願とよばれ、十方諸仏がわたしをたたえてわが名を称えなければ仏にならないと誓われたものです。これが意味するのは、ともすると「われら」が「なむあみだぶつ」を称えるものと思い込んでしまうが、そうではなくて「諸仏」が称える「なむあみだぶつ」がわれらに届くのだということでした。
 もちろん「なむあみだぶつ」はわれらも称えます。でもそれは諸仏の「なむあみだぶつ」の声が聞こえて、それがわれらのこころを温めてくれ、そのままわれらの口から漏れでていくものです。「なむあみだぶつ」はあくまで「いただいたもの」であり、「わがもの」ではありません。
 それを見事に造形したのが、京都・六波羅蜜寺の空也上人像です。各地を遊行する上人の口から「南無阿弥陀仏」がこぼれでるのですが、その六文字がそれぞれ小さな仏の姿をしています。仏から空也にやってきた「南無阿弥陀仏」がまた小さな仏となって誰かへ運ばれていくのだとあの像は教えてくれます。


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