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『末燈鈔』を読む(その52) ブログトップ

第5通 [『末燈鈔』を読む(その52)]

          第4章 自然法爾ということ

(1) 第5通

 これには「自然法爾(じねんほうに)のこと」という表題がつけられています。末尾に正嘉2年(1258年)12月14日の日付けがあり、愚禿親鸞八十六歳と記されています。2段に分けて読みます。まず第1段。

 自然といふは、自はをのづからといふ。行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆへにしからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、おほよす行者のはからひのなきをもて、この法の徳のゆえにしからしむといふなり。すべてひとのはじめてはからはざるなり。このゆへに義なきを義とす、としるべしとなり。自然といふは、もとよりしからしむるということばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とはまふすぞときゝてさふらふ。
 
 (現代語訳)自然の「自」といいますのは「おのずから」ということです。行者のはからいではないということです。「然」というのは「しからしむ」ということばです。「しからしむ」といいますのは、行者のはからいではなく如来の誓いですから、また「法爾」ともいうのです。「法爾」といいますのは如来の誓いによるということですから、「しからしむ」ことを「法爾」というのです。「法爾」とは如来の誓いのことですから、およそ行者のはからいではなく、この法の徳によって「しからしむ」ということです。人がそもそも何もはからわないということです。ですから「はからいのないのが正しい」と知らなければならないと言われるのです。自然といいますのは元々「しからしむ」ということばです。弥陀仏のお誓いは、言うまでもなく行者のはからいではなく、南無阿弥陀仏とおたのみもうせば、迎えとろうと弥陀仏自身がはからってくださっているのですから、行者が善いとも悪いとも思わないのを「自然」というのだとお聞きしております。


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