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「われ思う、ゆえにわれあり」 [『末燈鈔』を読む(その56)]

(5)われ思う、ゆえにわれあり

 「いまここにいる」ことはどうあっても「はからう」ことができない、ということを考えているところです。
 デカルトという哲学者は、ひとつでもいいから絶対確実なことを見出そうとして、あらゆることを疑いました。そうして、疑いつくした末にこれだけは疑えないと思えることを拾い出そうとしたのです。その徹底ぶりはもう普通の人からみれば正気の沙汰とも思えないほどです、「2+3=5」までも疑うのですから(悪魔がぼくらの頭のネジを狂わせているかもしれないと)。
 かくして、もうこれは疑えないこととして見出されたのが「わたしがいまここにいる」ことでした。試しに「わたしがいまここにいる」ことを疑ってみましょうか。そのとき、それを疑っている「わたしがいまここにいる」ではありませんか。このように「わたしがいまここにいる」ことは疑えませんが、デカルトはそこから「ゆえにわれあり」と飛躍します。
 デカルトにとってこの「われ」とは「精神(という実体)」であり、ここから彼は思考を本質とする「精神」と延長(広がり)を本質とする「物質」の二元論を展開していくのですが、これはカントが指摘しましたように、明らかな誤謬推理です。天地がひっくり返っても確かなのは、何を疑うにせよ、疑っている「わたしがいまここにいる」ということだけで、精神という名の実体が存在することではありません。
 さて「いまここにいる」ことを「疑えない」ということのもっとも深い意味は、「いまここにいる」ことは「はからえない」ということです。「いまここにいる」ことは、もはやどうすることもできないということです。それを肯定するにせよ、否定するにせよ、もうすでに「いまここにいる」のですから。


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