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よからんとも、あしからんともおもはぬ [『末燈鈔』を読む(その58)]

(7)よからんとも、あしからんともおもはぬ

 「いまここにいる」ことは「いまここにいていいのだろうか」という問いとしてのみ意識され、それとは別の形で意識することはありません。空気を意識するのは、それが希薄になり「息苦しいな」と感じるときであり、そうでなければ空気があることなど気にもとめないのと似ています。
 このことは、「いまここにいる」ことの気づきは自分で得ることができず、与えられるものであることを意味します。
 「いまここにいていいのだろうか」という問いは、自分が自分に発するように見えますが、実はどこかから突きつけられているのです。教室でシカトされている生徒の身になってみましょう。彼は「いまここにいていいのだろうか」と自問しますが(この場合の「ここ」は特定の場所、つまり教室の中です、念のため)、この問いは実はシカトをしている誰かの視線から発せられています、「おまえはここにいていいのか」と。
 このように「いまここにいていいのだろうか」という問いが突きつけられ、「いまここにいる」ことが居心地の悪さとして意識されるのですが、そのとき、もうひとつの気づきがあります。それがここで親鸞がいう「如来のちかひ」の気づきです。これが「法の深信」で、「いまここにいていいのだろうか」という機の気づきは、「如来のちかひ」という法の気づきと一体であるということです。機の気づきが与えられたとき、法の気づきも与えられる。
 「いまここにいる」ことは、われらが「はからう」ことではなく、弥陀から「はからはせたまひたる」ことなのです。だからこそ、「行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とはまふす」のです。われらはそれを「ただほれぼれと」(『歎異抄』16章)いただくだけです。


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