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『末燈鈔』を読む(その59) ブログトップ

第5通第2段 [『末燈鈔』を読む(その59)]

(8)第2段

 ちかひのやうは、無上仏にならしめんとちかひたまへるなり。無上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふす、とぞきゝならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。この道理をこゝろへつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なを義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。

 (現代語訳)弥陀仏は衆生を無上仏にならせようと誓われたのです。無上仏といいますのは、形もありません。形がありませんから自然というのです。形があるときには、無上涅槃とは言いません。そもそも、形もないことを知らせようとして弥陀仏と呼ぶのだと聞きならってまいりました。弥陀仏とは自然ということを知らせるための手立てです。この道理を心得られましたら、この自然ということについていつまでもあれこれ言うべきではありません。自然についていつまでもあれこれ言いますと、「はからいのないことが正しい」と言いながら、やはりはからいがあることになってしまいます。これは仏智の不思議なところです。

 自然法爾とは、われらが「はからう」のではなく、弥陀が「はからはせたまふ」のをただほれぼれといただくだけだと、その意味を明らかにしたあと、ではどのように「はからはせたまふ」のかと論を展開していきます。仏になるとはどういうことかという根本問題に入っていくのです。


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