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働きがあれば、その主体がある [『末燈鈔』を読む(その61)]

(10)働きがあれば、その主体がある

 仏とはもともと「悟りをひらき涅槃の境地にいる人」であったのが、大乗仏教のなかでより複雑な位置づけとなります。自分が涅槃の境地にいるだけでなく、衆生を済度して涅槃の境地に入らせるという側面がクローズアップされてくるのです。その典型が阿弥陀仏で、法蔵菩薩が衆生済度の誓いを立て、それが成就することで阿弥陀仏となられたという教えにそれがはっきりあらわれています。
 さて、これまでは、仏像はただ涅槃の境地に入った人を象っただけで、涅槃そのものにはかたちはないということでよかったのですが、衆生を済度して涅槃の境地に入らせる存在となりますと、それは何としてもかたちがなければならないということになってきます。仏像はかたちなきものに方便として姿かたちを与えただけで、仏にはもともとかたちはない、ではすまなくなってくるのです。
 ぼくらは何らかの働きがあれば、それをしている主体がなければならないと考えます。働きだけがあって、その主体がない、というのはどうにも不可解です。笑いだけがあって、笑っている主体がないというのは「不思議の国のアリス」の話です。少し前に取り上げましたデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」もそれを言っています。思う(考える、疑うなど)という働きがある以上、必ずそこにその主体がいるということです。
 これはしかし誤謬の元でもあります。実際デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」から、実体としての「われ」を取り出し、霊魂の存在へと歩を進めていくのですが、これはどう見ても論理の飛躍でしょう。前にも言いましたように(5)、天地がひっくり返っても確かなのは、疑っているわたしが「いまここにいる」ことであって、そのわたしが霊魂である保証はどこにもありません。


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