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弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり [『末燈鈔』を読む(その62)]

(11)弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり

 衆生を済度して涅槃に入らせる働きがあれば、その主体がなければなりません。済度の働きだけがあって、済度の主体がないというのは、笑いだけがあって、その主体がないのと同じく、ぼくらの思考を超えています。そこで仏の出番がくるのですが、ここに誤謬の誘惑があります。
 実体化の誘惑です。
 デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」から、実体としての精神(霊魂の方が分かりやすいでしょうか)を取り出したように、衆生済度の働きとの出会いから、実体としての阿弥陀仏をしつらえる。「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」という経験は天地がひっくり返っても確かでしょう。でも、実体としての阿弥陀仏がどこかにおわす保証はありません。
 カントならこんなふうに言うでしょう、何らかの働きがあれば、その主体があるというのは、ぼくらがこの世界を経験するときに下敷きにしている思考コードであると。ですからぼくらの経験では、働きだけがあって主体がないといった事態はありえません。さてしかし、このコードはあくまでも経験の世界に限定され、それを超えたところ(見ることも聞くこともできないこと)には適用できません。それをしてしまうと仮象が生まれるのです。
 デカルトだのカントだのと、ややこしい話になってしまいましたが、親鸞がここで「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」と言っているのも同じことではないでしょうか。「自然」とは、われらが「はからふ」のではなく、弥陀が「はからはせたまふ」ということでした。そうした「はからひ」がある限り、その主体があるのは確かですが、それを実体としてはいけませんと言っているのです。


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