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阿弥陀仏の存在証明 [『末燈鈔』を読む(その63)]

(12)阿弥陀仏の存在証明

 「自然のやう(様)」とは、往生(救い)のことは、われらの「はからひ」ではなく、弥陀が「はからはせたまふ」ことだということです。そして弥陀仏というのは、それを「しらせんれう(料)」にすぎないと言います。料とは手立て、方便といった意味ですから、救いは向こうからやってくることを知らせるための手立てとして阿弥陀仏と名づけられているだけで、それを実体化してはいけないと言うのです。
 しかしこの誘惑はいたるところに待ち受けています。
 金子大栄氏が自分の若かった頃を振り返って述べておられる話が印象に残っています。彼が学僧としての道を歩み始めた頃でしょう、何とかして阿弥陀仏の存在を証明したいと思った、いや、そうすることが自分の使命だと思えたというのです。浄土真宗の教えに学問としての裏づけを与えるためには、何をおいてもまず阿弥陀仏が実在することを証明しなければならない、キリスト教神学において神の存在証明が最重要課題であるように、と。
 しかしあるとき、それが根本的な誤りであることに気づいたと言われます。自分が阿弥陀仏の存在を証明するのではなく、阿弥陀仏が自分の存在を証明するのだというのです。
 自分が阿弥陀仏の存在を証明するということは、こちらに自分がいて、向こうに阿弥陀仏がいることを証明するということです。この構図は阿弥陀仏を実体化しています。しかし阿弥陀仏は実体として存在するのではなく、その「はからひ」がぼくらに届いているだけです。「源左たすくる」の声が届くだけ。
 「はからひ」が感じられ、声が届きますから、それに阿弥陀仏という名を与えていますが、それだけのことで、決して絶対的存在者がどこかにいるということではありません。ぼくらにとって「はからひ」が感じられるだけでもう十分で、「この道理をこゝろへつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。…これは仏智の不思議にてあるなり」です。

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