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『末燈鈔』を読む(その64) ブログトップ

第6通 [『末燈鈔』を読む(その64)]

         第5章 なによりも、こぞ・ことし

(1) 第6通
 
 第6通に進みます。この手紙には文応元年(1260年)11月13日の日付けがあり、善信88歳と書かれています。善信とは親鸞が33歳のとき、法然から『選択集』の書写を許されたことを『教行信証』の末尾に誇らしげに記録しているその年に、それまでの綽空を改めて名のった名前で、どういう心境からか昔の名前を出しているのです(他の手紙はみな親鸞の署名です)。
 そしてこの手紙は乗信御坊にあてられています。おそらく編者・従覚が書いたと思われる文、「この御消息の正本は、坂東下野国おほうち(大内)の荘高田にこれあるなりと云云」からしまして、乗信坊は高田門徒だろうと思われますが、『門侶交名牒』(門弟の名簿です)には常陸の国、奥郡(おうぐん、常陸国の北の地方)に在住とあります。
 2段に分け、まず第1段。

 なによりも、こぞ・ことし、老少男女おほくのひとびとのしにあひて候らんこそ、あはれにさふらへ。たゞし生死無常のことはり、くはしく如来のときをかせおはしましてさふらふうへは、おどろきおぼしめすべからずさふらふ。まづ善信が身には、臨終の善悪をまふさず、信心決定のひとは、うたがひなければ、正定聚に住することにて候なり。さればこそ愚痴無智のひともをはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとにまふされ候ける、すこしもたがはず候なり。としごろをのをのにまふし候しこと、たがはずこそ候へ。

 (現代語訳)なによりも、昨年から今年にかけて、老若男女多くの人が亡くなられましたことは、哀れなことです。ただ、生死無常のことわりは釈迦如来が詳しく説いておいてくださいましたことですから、いまさら驚くべきことではありません。まずわたし善信としましては、臨終の善し悪しにかかわりなく、信心が定まっている人は本願を疑う心がありませんから、必ず仏になれる正定聚の位についているのです。だからこそ、愚かで智慧のない人も終りの時をめでたく迎えることができます。往生できるのは如来のおはからいによると人々に言われているようですが、それで少しも間違いではありません。これまであなた方に申してきましたことと何も違ってはおりません。


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