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臨終の善悪をまふさず [『末燈鈔』を読む(その66)]

(3)臨終の善悪をまふさず

 親鸞もこの手紙で「たゞし生死無常のことはり、くはしく如来のときをかせおはしましてさふらふうへは、おどろきおぼしめすべからずさふらふ」と言っています。
 これも悟り澄ましたことばと取れないことはありません、「よくあることだから、慌てることはない」というように。でも、うしろにつづくことばを読みますと、おそらく乗信坊が東国の惨状を知らせながら、その中でどう対処していけばいいのかと問いあわせてきているのであろうのに対して、親鸞が念仏者としてのこころのもちようを語りさとしていることが伝わってきます。
 乗信坊が書いたであろう手紙の内容を推測しますと、飢饉の中でバタバタと亡くなっていく人々の臨終のありさまはまことに悲惨で、とても後生のことに思いをかけ念仏しながら亡くなっていくというわけにはいかないこと、また思いもかけず急な死に見舞われて、浄土の教えをきちんと学ぶ暇もなく旅立っていかねばならないことなどを嘆いていたのではないでしょうか。
 それに対して親鸞は「まづ善信が身には、臨終の善悪をまふさず」と言います。
 臨終のよしあしなどどうでもいい、と言うのです。病に苦しめられ、ひどい悪相で亡くなるとしても、そんなことを気にすることはないと。なぜなら「信心決定のひとは、うたがひなければ、正定聚に住する」からです。この論点はすでに第1通に「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と説かれていました。
 「あひがたくしていまあふことをえた」のだから、もうすでに往生は一定、どうして臨終のよしあしを気にすることがあるのか、と繰り返し説かれたに違いありませんが、臨終こそ大事という感覚はなかなか消えないようです。長い伝統のなかで培われたものは、一朝一夕に崩れるものではありません。


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