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死ぬる時節には死ぬがよく候 [『末燈鈔』を読む(その67)]

(4)死ぬる時節には死ぬがよく候

 このように見てきますと、親鸞の「生死無常のことはり、くはしく如来のときをかせおはしましてさふらふうへは、おどろきおぼしめすべからずさふらふ」ということばがどのような文脈から出てきたかが了解できます。「信心決定のひとは、うたがひなければ、正定聚に住する」のですから、「生死無常のことはり」に右往左往することはないということでしょう。
 良寛さんを思い起こします。彼も手紙の中で「災難(これも地震のことです)に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」と述べています。これなどは正しく悟り澄ましたことばと言われかねませんが、でもあの宗教学者の「世の無常を感じざるをえない」とはまったく違った響きをもっています。
 あの宗教学者は「世の無常」に目を見張っています、そして「あゝ」と詠嘆しているのです。
 古典文学の無常観というのはそういうものでしょう。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の華の色、盛者必衰のことわりをあらわす」(平家物語)は詠嘆です、儚き世の中を嘆き悲しんでいるのです。しかし親鸞も良寛も無常に驚いているのではありません、無常を嘆いているのではありません、親鸞は「おどろきおぼしめすべからずさふらふ」と言い、良寛は「死ぬる時節には死ぬがよく候」と言うのです。
 いわゆる無常観が「世の無常」を嘆くとき、本人はどこか別のところから「世の無常」を眺めています。少なくとも「世の無常」に巻き込まれたくないと願っています。でも親鸞も良寛も「世の無常」をわが身に生きているのです。「これでよし」と肯定しているのです。なぜなら「信心決定のひとは、うたがひなければ、正定聚に住する」のですから。もうすでに救われているのですから。


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