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第7通第2段 [『末燈鈔』を読む(その78)]

(15)第7通第2段

 第7通の第2段です。

 このよにて真実信心の人をまほらせ給へばこそ、『阿弥陀経』には十方恒沙の諸仏護念すとは申事にて候へ。安楽浄土へ往生してのちはまもりたまふと申ことにては候はず。娑婆世界にゐたるほど護念すとは申事也。信心まことなる人のこゝろを、十方恒沙の如来のほめたまへば、仏とひとしと申事也。
 又他力と申ことは、義なきを義とすと申なり。義と申ことは、行者のおのおののはからう事を義とは申也。如来の誓願は不可思議にましますゆへに、仏と仏との御はからひなり。凡夫のはからいにあらず。補処(ふしょ)の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからうべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人の仰に候き。このこゝろのほかには、往生にいるべきこと候はずとこゝろえて、まかりすぎ候へば、人の仰ごとには、いらぬものにて候也。
 二月二十五日                              親鸞

 (現代語訳)この娑婆世界で真実信心の人を守ってくださるからこそ、『阿弥陀経』に十方世界の無数の諸仏が護り念じてくださると説いているのです。安楽浄土へ往生してから後で守ってくださるのではなく、この娑婆世界にいるときに護り念じてくださると言うのです。信心が真である人の心を、十方世界の無数の如来が褒めてくださるのですから、その人を仏に等しいと言うのです。
 また他力と申しますのは、義のないことが正しいということです。義と言いますのは、行者が自分からはからうことを義と言うのです。如来の本願は不可思議ですから、仏だけが仏のお心をはからうことができるのです。凡夫がはからうことではありません。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏の智恵の不思議をはからう人はいません。という訳で、如来の本願にははからいのないことが正しいのですと、法然聖人が仰せになられたのです。この気持ちがあれば、往生にとって他に何も必要ではないと心得てまいりましたから、人があれこれ言うことはいらぬことばかりです。


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