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「源左、たすくる」と聞こえたとき [『末燈鈔』を読む(その81)]

(18)「源左、たすくる」と聞こえたとき

 いまいちど信=気づきの原点に戻りましょう、気づきこそすべてのアルファでありオメガです。
 「源左、たすくる」と聞こえた。それは横にいた牛(デン)の「モゥー」の声がそう聞こえたのかもしれませんが、ともあれ源左には仏の声と聞こえた。その声に「ようこそ、ようこそ」と応じた源左にとって仏と自分の境界は明確です。仏の声が、本願の声が自分を救ったということ自体は、あな不可思議というしかないとしても、そこに曖昧なものは何もありません。
 しかし、この声を聞いた源左は、同時に、「ああ、もう仏とひとしい」という実感をもったことでしょう。仏となれることが約束されただけですが、もうそれで「仏とひとしい」と感じられたに違いありません。一方では、紛れもなく仏の声に救われたのですから「仏とひとしい」などとは滅相もないことですが、でも同時に、もう救われたのですから「仏とひとしい」と感じられる。
 煩悩具足の凡夫でありながら、そのままで「仏とひとしい」という矛盾に満ちたところにいるのが信心のひとです。
 一方、浄信房はどうか。願成就の文に十方恒沙の諸仏とありますのは、信心の人のことだと考えられます、と推理しています。経文をつき合わせて矛盾のないように解釈すれば、そういう結論になりますというように。これは、前にも言いましたが、何か数学の証明をしているような感じで、そこに決定的に欠けているのが実感すなわち気づきです。
 矛盾に満ちたところにいることを自覚しているからこそ、ことばのつかい方にも神経が行き届き、「ひとし」と「おなじ」を厳格に分けることになるのですが、そうではない浄信房は「諸仏とは信心のひとである」と言って危ぶまないのです。

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