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第6章 (1)第9通 [『末燈鈔』を読む(その82)]

           第6章 ただ不思議と

(1) 第9通

 第8通(正嘉元年、親鸞85歳)は語句の説明に終始していますので、勝手ながら略させていただきます。ただ、その末尾のこんな一節がこころに残ります、「目もみえず候。なにごともみなわすれて候うへに、ひとにあきらかにまふすべき身にもあらず候。よくよく浄土の学生にとひまふしたまふべし。あなかしこ、あなかしこ」。寄る年波を感じている親鸞が偲ばれます。
 さて第9通です。

 御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。
 さてはこの御不審、しかるべしともおぼえず候。そのゆへは、誓願・名号とまふして、かはりたること候はず候。誓願をはなれたる名号も候はず。名号をはなれたる誓願も候はず候。かくまふし候も、はからひにて候なり。たゞ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなへつるうへは、何条わがはからひをいたすべき。ききわけ、しりわくるなど、わづらはしくはおほせ候やらん。これみなひがごとにて候なり。たゞ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候なり。あなかしこあなかしこ。
 たゞ如来にまかせまいらせおはしますべく候。あなかしこあなかしこ。
  五月五日                              親鸞
 教名御房
    この文をもて、ひとびとにもみせまいらせたまふべく候。他力には義なきを義とはまふし候なり。

 (現代語訳)お手紙詳しく拝見しました。
 さて、ご不審の点ですが、もっともとも思えません。と言いますのは、誓願と名号とは言うものの、別ものではないからです。誓願を離れた名号もありませんし、名号を離れた誓願もありません。こんなふうに言うこと自体、はからいをしているのです。ただ誓願の不可思議を思いながら信じ、また名号の不可思議を思いながら称えるのですから、そこにどうしてはからいが入るでしょう。聞き分けるとか、知り分けるなどと言われるのは煩わしいはからいではないでしょうか。そのようなことはみな不要です。ただ不思議と信じて、とかくはからいがあってはいけません。往生の業につきましては、自分勝手なはからいがあってはいけません。謹言。
 ただ如来にお任せしていればいいのです。謹言。
 
 この手紙を、他の人たちにも見せてやってください。他力ということは、はからいのないことがよろしいということです。


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