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分別するとは [『末燈鈔』を読む(その85)]

(4)分別するとは

 思いもかけないことに突然出会い(これが「気づき」です)、驚きと不思議の思いに包まれます。そのとき「ただ不思議と」思っているだけでいいのに、理性というヤツは「これは一体何だろう」と詮索せざるをえないのです。仏教ではよく「分別してはいけない」と言いますが、そういわれても「これは何だろう」という思いをとどめるのは不可能です。
 「分別してはいけない」とは、「われらの理性がその限界を超えて翼を広げないように」と、カント的に理解すべきではないでしょうか。
 カントはこう言います、ぼくらの理性は感性が受けとるさまざまな情報を秩序だてる役割をしているのに、ときどきそれを忘れて、感性の情報がないところでも勝手に想像の翼を広げてしまうことがあるが、それが仮象の元だと。これをいまの場合に当てはめ、「気づき」がないにもかかわらず、勝手に空想の翼を広げることが分別として戒められていると理解すべきです。
 そこで改めて「誓願をはなれたる名号も候はず。名号をはなれたる誓願も候はず」について思いを潜めてみましょう。
 誓願の「気づき」がないところでは、「誓願と名号はひとつである」というこの親鸞のことばはなかなか了解できるものではないでしょう。誓願とは、言うまでもなく法蔵菩薩の「一切衆生を往生させたい」との願いです。そして名号とは「なむあみだぶつ」つまり「阿弥陀仏に帰依します」ということですから、この二つが同じであるというのはどうにも腑に落ちないのではないかと思われます。
 しかし誓願に「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」という場に立てば、誓願といい、名号といっても、よび方が違うだけで同じものであることが難なく了解できます。


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