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「なむあみだぶつ」 [『末燈鈔』を読む(その86)]

(5)「なむあみだぶつ」

 「なむあみだぶつ」とは「阿弥陀仏に帰依します」ということですが、これは返信であることを忘れるわけにはいきません。
 そもそも、どんな発信も例外なく返信です。ぼくがよく出す例としては「ただいま」があります。ぼくらは「ただいま」と言って家に帰り、それから「おかえり」と迎えられるものですが、よくよく考えますと、「ただいま」の前に「おかえり」が聞こえているはずです、こころの耳に。だからこそ「ただいま」と返事するのです。
 「なむあみだぶつ」も挨拶です。いまもインドでは人に会うと「ナマステ(こんにちは)」と挨拶しますが、これは「あなたに(テ)帰依します(ナマス)」という意味で、「なむあみだぶつ」も「阿弥陀仏に帰依します(ナモ)」ということです。さて、ぼくらが道で会った人に「こんにちは」と挨拶するのは、その人から「こんにちは」の声がこころに届くからです。そっぽを向いている人には挨拶しないでしょう。
 「なむあみだぶつ」も同じで、ぼくらがそう言う前に「なむあみだぶつ」の声が聞こえているのです。親鸞はその声を「かえっておいで」と翻訳してくれます(『教行信証』行巻の「招喚の勅命」)。「かえっておいで」と聞こえるから、すかさず「ただいま」と返事する。それがぼくらの「なむあみだぶつ」です。
 としますと「かえっておいで」と聞こえる声(名号です)は誓願そのものではないでしょうか。
 法蔵菩薩は「誰ひとりもらすことなく、みな往生させたい」と願われた。その願いを声にしたものが「なむあみだぶつ」です。願いは願いとしてあるだけではわれらに届きませんから、それを声にしなければならない。それが第十七願であることはこれまでも述べてきました。諸仏が弥陀の願いを声にして「かえっておいで」と呼びかけてくれるからこそ、ぼくらはそれに「はい、ただいま」と応えることができるのです。


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