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わたくしのはからひ [『末燈鈔』を読む(その88)]

(7)わたくしのはからひ

 この手紙には「仏智不思議と信ずべきこと」という表題がつけられています。そして宛て先は浄信房です。第7通に登場したあの浄信房です(5章)。第7通で親鸞は浄信房に対して「やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候」と述べていましたが、この手紙でも、くりかえし「はからひあるべからず」と諭しています。
 「これみなわたくしの御はからはひになりぬとおぼえ候」、「たゞ不思議と信ぜさせたまひ候ぬるうへは、わづらはしきはからひあるべからず」、「すべてこれなまじゐなる御はからひと存じ候」、「別にわづらはしく、とかくの御はからひあるべからず候」、「とかくの御はからひあるべからず候なり」とつづき、さらに追伸で「他力とまふし候は、とかくのはからひなきをまふし候なり」と念を押しています。
 短い手紙でこう何度も「はからうなかれ」と言わざるをえなかったのは、よほど浄信房という人に対して思うところがあったのでしょう。第6通に、「ふみさたして、さかさかしきひと(学問をして、かしこそうな人)のまいりたるをば、“往生はいかゞあらんずらん”」と法然上人が言われたとありましたが、親鸞の眼には浄信房も「ふみさたして、さかさかしきひと」に見えたのでしょうか。
 おもしろいと思いますのは、浄信房が「一念発起信心のとき無碍の心光に摂護せられまいらせ候ゆへ、つねに浄土の業因決定す」と書いてきたことについて、親鸞は「これめでたく候。かくめでたくはおほせ候」と言いながら、しかし「これみなわたくしの御はからはひになりぬとおぼえ候」と結論していることです。
 第7通でもそうでしたが、浄信房が書いてきたことと親鸞が説いていることとの間にそれほどの違いがあるとは思えないのですが、親鸞には何か匂ってくるものがあるのでしょうか、あなたの言うことはみな「わたくしのはからひ」になっているとピシャリと指摘するのです。


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