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ことばを生きる [『末燈鈔』を読む(その89)]

(8)ことばを生きる

 二人の人がいて、言っていることはほとんど同じなのに、ほんのちょっとした言葉遣いが違っているだけで、一方は「これは本物だ」と思い、ちょっとだけ違うもう一方は「何か違うな」と思うことがあります。話しことばではなく、書かれたものでも、本物と偽物の違いが漂いだす。これはどういうことでしょう。
 本物には何かがあり、偽物にはそれが欠けているということです。その何かが「気づき」であることは前に述べましたが(5章)、それをこうも言えるでしょう。本物のことばとは、それを言うひとがそのことばを生きているが、偽物のことばは、それを言うひとがそのなかにいないと。
 曽我量深氏の名言をお借りしますと、本物のことばの場合、「むかしの本願がいまはじまる」のですが、偽物では、むかしの本願がむかしのままで、ちっともはじまりません。むかしの本願は、それをことばにしますと誰が言っても同じようなものになるでしょうが、それが「いまはじまる」のと「むかしのまま」であるのとでは受ける印象がまるで違ってくるのです。
 「むかしのまま」だとどうなるのか。浄信房のことば、「一念発起信心のとき無碍の心光に摂護せられまいらせ候ゆへ、つねに浄土の業因決定す」を、たとえば「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『歎異抄』1章)と比べますと、その意味内容において違いはありません。
 でも、ほんの些細な違いが気になります。「浄土の業因」ということばは親鸞もつかいますが、そのつかい方が微妙に違うのです。浄信房の言い方では、「一念発起信心」によって「浄土の業因」をわが身に引き寄せるというように聞こえてきます。親鸞ならこうは言わない。「一念発起信心」のとき「浄土の業因」がわが身に働いているのを感じると言うのではないでしょうか。


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