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第11通 [『末燈鈔』を読む(その91)]

(10)第11通

 では次の第11通です。

 専信坊、京ちかくなられて候こそ、たのもしうおぼえ候へ。又御こゝろざしのぜに三百文、たしかにたしかにかしこまりてたまはりて候。
 四月七日の御ふみ、五月廿六日たしかにたしかにみ候ぬ。
 さてはおほせられたる事、信の一念、行の一念、ふたつなれども、信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆへは、行と申は、本願の名号をひとこゑとなえて、わうじやうすと申ことをきゝて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかいをきゝて、うたがふこゝろのすこしもなきを、信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするときゝてうたがはねば、行をはなれたる信はなしときゝて候。又信をはなれたる行なしとおぼしめすべく候。これみなみだの御ちかひと申ことをこゝろうべし。行と信とは御ちかいを申なり。あなかしこあなかしこ。いのち候はゞかならずかならずのぼらせ給ふべく候。
  五月廿八日                          (花押)
 覚信御房 御返事

 (現代語訳)専信坊が京の近くへ来られたそうで、頼もしいことです。またお志のお金三百文、確かに有難く受け取りました。 
 4月7日付けのお手紙、5月26日に確かに拝見しました。さて、お手紙でご質問のことですが、信の一念と行の一念と二つではありますが、信を離れた行はありません。また行の一念を離れた信の一念もありません。と言いますのは、本願の名号を一声称えて往生すると聞かせてもらい、一声称えもしくは十回称えるのが行です。このお誓いをきかせていただき、疑う心が少しもないことを信の一念と言うのですから、信と行は二つのようですが、一声称えれば聞いて疑いがありませんから、行を離れた信はないとお聞きしております。また信を離れた行はないとお思いになってください。これらはみんな弥陀のお誓いであることを心得るべきです。行と信はお誓いのことです。謹言。いのちがありますれば、必ず上京していただきたく思います。


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