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『末燈鈔』を読む(その96) ブログトップ

第12通 [『末燈鈔』を読む(その96)]

         第7章 念仏の不審のこと

(1) 第12通

 第12通に進みます。

 たづねおほせられ候念仏の不審のこと、念仏往生と信ずるひとは辺地の往生とてきらはれ候らんこと、おほかたこゝろえがたく候。そのゆへは、弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候。また、一向名号をとなふとも、信心あさくば往生しがたく候。されば念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、うたがひなき報土の往生にてあるべく候なり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地にむまるべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にてさふらふべき。このやうをよくよく御こゝろえ候て御念仏さふらふべし。
 この身は、いまは、としきはまりてさふらへば、さだめてさきだちて往生しさふらはんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし。あなかしこあなかしこ。
  七月十三日                            親鸞
 有阿弥陀仏 御返事

 (現代語訳)お尋ねの念仏についてのご不審の点ですが、念仏往生と信じる人は辺地へ往生すると嫌われるだろうとのことですが、まったく理解できないことです。どうしてかと言いますと、弥陀の本願と申しますのは、名号を称えるものを極楽へ迎えようと誓ってくださったのですから、それを深く信じて称えるのがよろしいのです。信心があっても、名号を称えないのでは詮無いことです。また、一心に名号を称えても、信心が浅ければ往生するのは難しいでしょう。ですから、念仏往生を深く信じて、しかも名号を称えれば、疑いなく真実の浄土へ往生できるのです。結局のところ、名号を称えると言いましても、他力本願を信じなければ辺地への往生に留まるでしょう。本願他力を深く信じる人は、どうして辺地への往生などということになるでしょう。この辺りをよくよくお心得の上念仏なさるべきです。
 この身はもう年が極まりましたから、定めてお先に往生するでしょうから、浄土で必ずお待ちしましょう。謹言。


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