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無我と他力 [『末燈鈔』を読む(その100)]

(5)無我と他力

 ぼくらは、同一のものとして持続する「わたし」がある「かのように」生きているだけなのに、「わたし」という実体が実際にあると思い込む、これが我執だというのが釈迦の教えです。同じように、ぼくらは「わたし」の周りをすべてが回っている「かのように」生きているだけなのに、実際にそうであると思い込む、これが自力への執着です。そしてそのことに気づくことが他力に他なりません。
 他力とは、「わたし」の周りをすべてが回っている「かのように」生きることから抜け出すことではありません。そんなことはできるはずがありません。あくまでも「わたし」がいて、「わたし」が「あなた」を認めてはじめて「あなた」は「あなた」として存在することになるのです。ぼくらにできるのは、そのようである「かのように」生きていることに気づくことだけです。それが他力ということです。
 釈迦は我執をなくせと言うのではありません。そんなことはできるはずがありません、生きることすべてが我執ですから。そうではなく、我執を生きていることを自覚しなさいと言うのです。そうすることで我執がなくなるわけではありませんが、不思議なことに、それによる苦しみが和らぐのです。さてしかし、我執を自覚しなさいと言われても「はい、分かりました」というわけにはいきません。
 「わたし」とは我執であると自分から好きこのんで自覚するはずがありません。それは向こうから突きつけられ、有無を言わさず気づかされるのです。あるときふと我執に気づかされる、つまり他力です。このように見てきますと、無我といい他力といっても別ものではないことが分かります。一見、縁もゆかりもないような顔つきをしていますが、この二つは実は同じものなのです。


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