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信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候 [『末燈鈔』を読む(その101)]

(6)信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候

 だいぶ横道にそれました。どうしてこうも繰り返し「念仏か信心か」などと煩わしくはからうのかということから、それはわれらが自力の世界にどっぷり浸かっていて、他力の世界(無我の世界)がいかにも座りが悪いからだと述べてきたのです。だからもう習い性のようにはからってしまうのだと。
 このあたりで第12通に戻りまして、「信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候」ということばに着目したいと思います。
 「一向名号をとなふとも、信心あさくば往生しがたく候」の方は親鸞的感性と親近性が強く、何の違和感もないのですが、「信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候」ときますと、「詮なく候」とはどういう意味合いで言われているのだろうと思いを廻らしたくなるのです。「詮なし」とは、「しかたがない」、「無意味である」、「つまらない」といった意味ですが、どれもいま一つピタッときません。
 親鸞の気持ちを斟酌しますと、ほんとうの信心があれば、おのずと念仏につながるものだから、名号を称えないというのは、ほんとうに信心があるのかどうか訝しくなるといったところではないでしょうか。「帰っておいで」という声が届いたら、おのずと「ただいま」という声が出るものなのに、それが出ないということは、「帰っておいで」が確かに届いているかどうか怪しいと。
 あるいはこうも言えます。美しいメロディーが流れてきたら、それに聞きほれているうちに、思わずそれをなぞっていないでしょうか。口にしないまでも、こころの中でそのメロディーをハミングしています。ですから、こんなに美しいメロディーが流れているのに、それをなぞらないとすれば「詮ない」(理屈に合わない)ではないかと言いたくなる。親鸞が「信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候」というのは、そういうことではないかと思うのです。


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