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『末燈鈔』を読む(その103) ブログトップ

第13通 [『末燈鈔』を読む(その103)]

(8)第13通
 
 第13通に進みます。

 たづねおほせられて候摂取不捨の事は、『般舟三昧(はんじゅざんまい)行道往生讃』と申におほせられて候を、みまいらせ候へば、釈迦如来・弥陀仏、われらが慈悲の父母にて、さまざまの方便にて、我等が無上信心をばひらきおこさせ給と候へば、まことの信心のさだまる事は、釈迦・弥陀の御はからいとみえて候。往生の心うたがひなくなり候は、摂取せられまいらせたるゆへとみえて候。摂取のうへには、ともかくも行者のはからいあるべからず候。浄土へ往生するまでは、不退のくらゐにておはしまし候へば、正定聚のくらゐとなづけておはします事にて候なり。まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来、二尊の御はからいにて発起せしめ給候とみえて候へば、信心のさだまると申は、摂取にあづかる時にて候なり。そのゝちは正定聚のくらゐにて、まことに浄土へむまるゝまでは候べしとみえ候なり。ともかくも行者のはからいを、ちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申事にて候へ。あなかしこあなかしこ。
  十月六日                              親鸞
 しのぶの御房の御返事

 (現代語訳)お尋ねの摂取不捨につきましては、善導大師の『般舟三昧行道往生讃』に説かれていることを見てみますと、釈迦如来と阿弥陀仏はわれらの慈悲の父母であって、さまざまな方便を使って、われらに無上の信心を開きおこさせてくださるとありますから、まことの信心が定まるのは、釈迦、弥陀の御はからいであるということです。往生の心が疑いなくなりますのは、摂取していただいたからだということです。摂取していただいた上は、もうとかく行者がはからうことはありません。浄土へ往生するまで、もう決して元に戻ることはないのですから、必ず仏となれる正定聚の位と名づけられているのです。まことの信心というものは、釈迦如来と弥陀如来の二尊の御はからいによって起こしていただけるということですから、信心が定まると申しますのは、摂取していただける時です。その後は正定聚の位にあって、まことの浄土へ往生するまでその位にあるのです。ともかく行者のはからいが塵ばかりもありませんからこそ、他力と申すのです。謹言。


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