So-net無料ブログ作成
『末燈鈔』を読む(その106) ブログトップ

原因と結果 [『末燈鈔』を読む(その106)]

(11)原因と結果

 ぼくらはどんなことであれ、それには必ず原因があると思います。原因が何か分からないことはいくらでもありますが、原因がないことは考えられません。さてしかし、どんなことにも原因があるということをどのようにして知ったのでしょう。あることがらの原因が何であるかは経験を通して知るしかありませんが、ではどんなことにも原因があるということも経験から知ったのでしょうか。
 ものごとに原因がないなどということには耐えられないという点から考えますと、どんなことにも原因があるというのは、それを経験から学んだというよりも、むしろわれわれがそれを経験に押し付けていると言った方があっているのではないでしょうか。カントはそれを経験が成立するための形式と考えました。われわれがその眼鏡を通して外界を見ているということです。
 ではどうしてそんな眼鏡をかけて外界を見ているのでしょう。そこには何か実際的な狙いがあるに違いありません。ぼくらは何か不思議なことに出会い、「どうしてだろう」と疑問をもつとき、「何がこれをもたらしているのか」というふうに考えます。たとえば何か病状が出たとき、「これをもたらせているのは何か」という視線であたりを見ます。あるいはクラスにいじめが起こったとき、「何がいじめを生じさせているのか」と探ります。
 いわゆる犯人さがしです。
 これが、どんなことにも原因があるという眼鏡の正体です。どんなことにも犯人がいる、それを探し出して叩けばいい、という発想。この発想が近代自然科学を生み出した原動力であったに違いありません。フランシス=ベーコンというイギリスの哲学者(徳川家康とほぼ同時代の人です)のことばに「知は力なり」というのがありますが、ものごとの原因を知ることは生活を豊かにする力になるのだというのです。


『末燈鈔』を読む(その106) ブログトップ