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帰命尽十方無碍光如来 [『末燈鈔』を読む(その110)]

(15)帰命尽十方無碍光如来

 臥せっていた親鸞に蓮位房が慶信房から来た手紙を取り次いだのですが、親鸞は、それでいいと思うが、ただ「一念するに往生さだまりて」のところは、「よきやうには候へども、一念にとゞまるところあしく候」と言われたそうです。そして蓮位房に「そのように書き入れなさい」と言われたのですが、蓮位房が「御自筆でお書きになったほうがいいのではないでしょうか」と答え、病ではあったが筆を取られたということです。「一念するに往生さだまりて」は「一念までの往生さだまりて」と改められ、ついでに他の部分も添削されたようです。そして先回上げました文も書き加えられたと思われます。
 先回の文は慶信房の手紙の追伸部分に対する答えです。
 その追伸部分で慶信房はこう言っています、「念仏している人たちの中には、南無阿弥陀仏と称える間に、無碍光如来と称える人もいます。それを聞いたある人が“南無阿弥陀仏と称えて、さらに帰命尽十方無碍光如来と称えるのは、何かはばかられること(おそれある事)で、いまふうでわざとらしく(いまめかわしく)思われる”と申しておりますが、これはどんなものでしょうか」と。
 念仏といえば、「南無阿弥陀仏」だけでいいのに、それに加えて「帰命尽十方無碍光如来」などと称えるのは、何かわざとらしいではないかと言う人がいたようで、慶信房はそれについて親鸞聖人はどのように思われますかと質しているのです。親鸞は「きわまれる御ひがごとゝきこえ候へ」と答えます。尽十方無碍光如来というのは、阿弥陀仏の「御かたちを、たしかにたしかにしらせまいらせんとて、世親菩薩御ちからをつくして、あらわし給へる」のだから、「南無阿弥陀仏」と称えるのも「帰命尽十方無碍光如来」と称えるのも全く変らないと。


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