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個人の宗教と共同体の宗教 [『末燈鈔』を読む(その112)]

(17)個人の宗教と共同体の宗教

 慶信房に「南無阿弥陀仏だけでいいのに、帰命尽十方無碍光如来などと称えるのは“いまめかわしい”」と言った人は、念仏儀礼の伝統を重んじる人ではないでしょうか。みんなが「南無阿弥陀仏」と称えているときに、どうして調和を破るようなことをするのかと苦言を呈しているように感じられます。
 しかし、そもそも念仏とは何なのか。
 弥陀から「帰っておいで」の声がして、それに思わず「ただいま」と応答するのが念仏ではなかったでしょうか。としますと、それは弥陀と自分だけの密やかなやり取りではないのか。そしてその密やかなやり取りにはそれぞれの流儀があるのではないか。それを、みんなが一斉に「なむあみだぶ」と称えるというのはどうにもおかしいと感じます。
 ルターやカルヴァンの宗教改革も同じ気持ちから起こったに違いありません。
 神と自分との間には『聖書』があるだけて、イエスの声が自分に届き、それに自分が応答するのがキリスト教の信仰のはずなのに、その間に教会が入り込み、教会(神父)の言うことにしたがうように言われる、これでは瑞々しい信仰がスポイルされるではないか-これがルターやカルヴァンのプロテストでした。
 個人の宗教と共同体の宗教。
 それぞれの人にそれぞれの「なむあみだぶつ」があっていいのではないでしょうか、それが「なむあみだぶつ」であるという思いさえあれば。因幡の源左には「ようこそ、ようこそ」という独特の「なむあみだぶつ」がありました。彼もお寺ではみんなと一緒に「なむあみだぶつ」と称えることでしょうが、彼にとっての個人的な「なむあみだぶつ」は「ようこそ、ようこそ」に違いありません。


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