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覚信房のこと [『末燈鈔』を読む(その113)]

(18)覚信房のこと

 親鸞に代わって蓮位房が書いた添状のなかに印象的な一節がありますので、紹介しておきます。第11通が宛てられていた覚信房(慶信房の父親)のことです(6章-10、11参照)。
 「(覚信房が)のぼり候しに、くにをたちて、ひといち(地名か)とまふししとき、やみいだして候しかども、同行たちはかへれなむどまふし候しかども、“死するほどのことならば、かへるとも死し、どどまるとも死し候はむず。またやまひをやみ候ば、かへるともやみ、とどまるともやみ候はむず。おなじくは、みもとにてこそおはり候はば、おはり候はめとぞんじてまいり候也”と、御ものがたり候し也。…おはりのとき、南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来ととなへられて、てをくみて、しづかにおわられて候しなり。」
 なんとしても親鸞にお目にかかりたいと、くにをでたものの、途中で病をえて、同行の人たちが帰った方がいいというのを、「みもとにてこそおはり候はば、おはり候はめとぞんじて」やってきた覚信房の最後の様子を、郷里にいる息子の慶信房に知らせてやっているのです。蓮位の書いた添状を読み聞かせられた親鸞は、この箇所にきて「御なみだをながさせたまひて候」とあります。なんともしみじみとした情感が流れています。
 覚信房が臨終に際して「南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議光如来ととなへられて、てをくみて、しづかにおわられて候しなり」とありますが、その状景が目に浮かぶようです。この念仏は「来迎をたのむ」念仏ではないでしょう。臨終こそ勝負のときで、しっかり念仏することで弥陀の来迎にあずかることができると思って称える念仏ではないでしょう。そうではなく、「これまでよき人生をおくることができ、ありがとうございました」という念仏ではないでしょうか。

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