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『末燈鈔』を読む(その114) ブログトップ

第15通 [『末燈鈔』を読む(その114)]

          第8章 悪はおもふさまに

(1) 第15通

 第15通に進みます。

 たづねおほせられて候事、返々めでたう候。まことの信心をえたる人は、すでに仏にならせ給べき御みとなりておはしますゆへに、如来とひとしき人と『経』にとかれ候なり。弥勒はいまだ仏になりたまはねども、このたびかならずかならず仏になりたまふべきによりて、みろくをばすでに弥勒仏と申候なり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしとおほせられて候也。又、承信房の、弥勒とひとしと候も、ひが事には候はねども、他力によりて信をえてよろこぶこころは如来とひとしと候を、自力なりと候覧は、いますこし、承信房の御こゝろのそこのゆきつかぬやうにきこへ候こそ、よくよく御あん候べくや候覧。自力のこゝろにて、わがみは如来とひとしと候らんは、まことにあしく候べし。他力の信心のゆへに、浄信房のよろこばせ給候らんは、なにかは自力にて候べき。よくよく御はからい候べし。
 このやうは、この人々にくはしく申て候。承信の御房といまいらせ給ふべし。あなかしこあなかしこ。
   十月廿八日                             親鸞
  浄信御房 御返事

 (現代語訳)お尋ねのことは、かえすがえすももっともなことだと思います。まことの信心を得た人は、すでに仏となることが定まった身になっておられるのですから、如来と等しい人と『華厳経』に説かれています。弥勒菩薩はまだ仏となっておられませんが、必ず仏となることに決まっているのですから、すでに弥勒仏とお呼びするのです。そのように、真実の信心を得た人を、如来に等しいと仰せられているのです。又、承信房が「弥勒と等しい」と言われるのも、間違いではありませんが、他力によって信を得て喜ぶ心が如来と等しいと言うのは自力だと言われているようですが、いま少し承信房の心が底の深いところに行き届いていないような感じがします。よくお考えいただきたく思います。自力の心で、わが身は如来と等しいなどと思うのは、まことにもってのほかです。他力の信心を得て浄信房が喜んでおられるのですから、どうしてそれが自力でしょうか。よくよくお考えいただきたいと思います。
 今述べましたことは、この人々に詳しく申してあります。承信房は、その人たちに問うてみてください。謹言。


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