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またもや浄信房 [『末燈鈔』を読む(その115)]

(2)またもや浄信房

 また浄信房です。これまで第7通、第10通ときて、これで3度目になります(『末燈鈔』に収められている中ではいちばん多い)。そして、その内容もまた「如来とひとし」を巡る話題です。浄信房にとって、この問題がこころの中心を占めていたようで、くり返しまき返しこれについて親鸞に尋ねています。
 第7通では「やうやうにはからひあふて候らん、おかしく候」と手厳しく指摘され、第10通でも「これみなわたくしの御はからはひになりぬとおぼえ候」と言われて、立つ瀬がなかったと思われますが、ここでは一転して「返々めでたう候」と褒められています(この3通がどの順番で出されたかは分かりませんが)。
 さて前半で、弥勒はいまだ仏ではないが、将来かならず仏になることが定まっているからすでに弥勒仏とよばれるように、信心をえた人も、かならず仏になれることが約束されているから、「如来とひとし」と言われるのだと確認しているところまではいいのですが、後半がなんとも分かりにくい。
 突然、承信房という人物が出てきます。『門侶交名牒』にも「二十四輩名」にもその名がなく、どんな人がまったく分かりません。他の写本には乗信房とあり、それが正しいとしますと第6通の宛先となっている人物です。また承信房は浄信房の単純な書き誤りとする解釈もあります。
 先の現代語訳は、承信房という人物がいるという前提で訳しましたが、それが浄信房の書き誤りだとしますと、まったく違ってきます。もしこれが浄信房だとしますと(人の名を書き間違えるだろうかという疑問は残りますが)、文のつながりが取りやすくなるのは確かです。


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