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如来とひとし [『末燈鈔』を読む(その116)]

(3)如来とひとし

 その前提で訳し直しますとこうなります、「あなたは、“信をえてよろこぶこころは如来とひとしい”と考えるのは自力ではないかと思われているようですが、それは底の深いところに届いていないように思われます。よくよくお考え下さい。たしかに自力のこころで“わが身は如来とひとしい”と思うのはもってのほかですが、他力の信心でそれをよろこんでおられることがどうして自力になるでしょうか。よくよく御思案ください」。
 さらに最後の一文がすっきり分かりやすくなります。「いま述べましたことは、この人たち(が誰を指すのかはよく分かりませんが)に詳しく話しておきましたので、あなたもこの人たちからよくお聞きになってください」。いかがでしょう、この方がよほど分かりやすいのではないでしょ.うか。
 さて、「自力のこゝろにて、わがみは如来とひとしと」思うのと、「他力の信心のゆへに、浄信房のよろこばせ給候」とはどう違うのか。
 思い出されるのは『歎異抄』第15章です。そこに「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと、この条、もてのほかのことにさふらふ」とありますが、これが「自力のこころにて、わがみは如来とひとし」と思うことでしょう。唯円は「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」のだと一喝します。仏になるのはあくまでかの土においてであると。
 では「他力の信心のゆへに」如来とひとしと喜ぶのはどうか。これを考えるとき、鈴木大拙氏と曽我量深氏の対話は実におもしろい。もう半世紀も前のことですが、比叡山上で上の両氏に金子大栄氏そして西谷啓示氏を加えた四人の親鸞を巡る話し合いがありました。その一こまを紹介しましょう。


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