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悪はおもふさまに [『末燈鈔』を読む(その120)]

(7)悪はおもふさまに

 ことは浄土の教えと無関係ではもちろんありませんが、しかしそれよりむしろ実際上の問題に関わります。言うまでもなく、本願ぼこり、あるいは造悪無碍とよばれる動きのことです。われら罪悪深重の凡夫を救ってくださる本願なのだから、悪を恐れることはない、「悪はおもふさまにふるま」えばいいという浄土教特有の誤った考え方がここで取り上げられるのです。そして先回りしておきますと、第19通、第20通というかなり長い二通の手紙も同じ問題を扱っています。
 本願ぼこりという動きは目新しいことではありません。すでに法然在世の頃、専修念仏の教えが野火のごとく広がり始めた頃から表面化していました。そしてそれが度重なる念仏停止の第一の理由として上げられてきたのです。念仏は世の風紀を乱すもととして狙い撃ちされてきました。しかし、どうしてこうもしばしば本願ぼこりの動きがあらわれるのか、そしてどうしてこうも前代未聞の弾圧が繰り返されるのか、ここにはじっくり考えなければならないことが潜んでいるようです。
 まず確認しておきたいのは、本願は罪悪深重の凡夫のためにあるという教えが、当時の庶民たちにどれほど大きなインパクトを与えたかということです。
 仏教は善業(経を読み、寺に寄進し、戒を守るなどなど)を積むことのできる人たち、すなわち貴顕紳士たちのためにあり、世の有象無象どもはその埒外に置かれてきたと言っていいでしょう。そんな中で、経を読むこともできず、寺に寄進するなど思いもよらず、戒を守るどころか生きていくために日々破戒を繰り返さねばならない凡夫のために本願はあるのだという教えがどんな作用をもたらしたかは想像に余りあるでしょう。その喜びが本願ぼこりという跳ね返りを生むことも容易に理解できます。


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