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苦の因は我執 [『末燈鈔』を読む(その122)]

(9)苦の因は我執

 われらの苦しみの根源に我執という悪がある、これが釈迦の教えです。さてここからどういう理路が開けてくるでしょう。
 決まっているじゃないか、苦しみを断つためには我執という根源悪を取り除かなければならない、ということだよ、と言われるでしょう。確かに四諦説の解説などを見ますと、そのように書いてあります。生きることはすべて苦しみである(苦諦)、苦しみのもとは煩悩である(集諦)、煩悩を滅すれば涅槃に至る(滅諦)、そのための方法が八正道である(道諦)、と。
 なるほど実に分かりやすい理路ですが、釈迦はほんとうにそんなことを説いたのでしょうか。苦しみのもと(因)が煩悩すなわち我執であると言ったのは間違いないでしょう。『スッタニパータ』にそう書いてあります。でもそこから、我執を消しなさい、そうすれば苦しみがなくなります、などと言ったのでしょうか。ぼくにはそうは思えない。
 ぼくらは、あることが何か不都合なことの因であると聞きますと、ただちに、それを取り去ればいいと思います。「もとを断て」です。これが近代的な原因・結果の発想であることは前に述べましたが(7章-11,12)、この発想のポイントは、原因を全体のつながりの中から切り取ってくることができるという点にあります。癌細胞を特定してやっつけるという発想です。
 しかし釈迦が、生きる苦しみの因は我執にあると言ったとき、我執を生きること全体の中から切り取ってやっつけることができるとは考えていなかったと思うのです。つまり釈迦の言う因果は近代的な原因・結果の発想とは微妙に違い、因も果も全体と切り離しがたく結びついています。ですから、因をなくせば、なるほど果もなくなりますが、でも生きることすべてがなくなってしまう。我執をなくせば苦しみはなくなりますが、生そのものがなくなってしまいます。


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