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生そのものが我執 [『末燈鈔』を読む(その123)]

(10)生そのものが我執

 釈迦の言う無我とは「我執をなくせ」ということではありません。「我執をなくせ」と言うことは「生そのものをなくせ」と言うにひとしい。生きることの中に我執があるのではなく、生きることそのものが我執ですから。ぼくらが我執をもっているのではありません、ぼくらが我執なのです。
 では無我とは何か。ほかでもありません、「生きることそのものが我執である」と気づくことです。
 釈迦が35歳のとき菩提樹の下で開いた悟りとは、この気づきのことです。悟りということばには、これを釈迦がおのれの力でつかみとったというニュアンスがあります。でも実際はそんなものではなかったと思うのです。伝えられるところによりますと、釈迦は修行仲間たちが驚嘆するほど徹底的な苦行に打ち込みましたが、ついに悟りに至ることができず、森を出たと言います。そしてネーランジャラー河(尼連禅河)で身を清め、菩提樹の下に座って瞑想に入ったときに、この気づきがきたのです。
 この言い伝えに意味があるとしましたら、それは、真実はみずからつかみ取れるものではなく、向こうからやってくるということです。
 自分の中に「わがものへの執着」があることまでは自分で気づくことができるでしょう。でも「自分がまるごと我執である」とは自分で納得できるものではありません。それには強い抵抗が働きます。「なるほど、ぼくの中に我執があることは認めるよ。でも、それを抑えようとする力がぼくの中にあることも事実だし、ぼくそのものが我執というのは言いすぎだよ」と。
 さて我そのものが我執だとしましたら、我執を我が否定できる道理がありません。それは自分が自分の存在を否定することで、あからさまな矛盾です。


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