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もとひがうたるこゝろをもおもひなをして [『末燈鈔』を読む(その124)]

(11)もとひがうたるこゝろをもおもひなをして

 釈迦は「生きることそのものが我執である」ことを、どこかから気づかされたに違いありません。それは向こうからやってきたのです。
 自分の中に我執という悪があるのではなく、自分が我執という悪そのものであることに気づかされた、そのときです、不思議なことが起こります。その気づきが生きる苦しみを和らげてくれるのです。生きる苦しみが消滅するわけではありません、その因である我執はそのままですから。でも、これまでと何かが違います。変な言い回しかもしれませんが、安心して苦しむようになるのです。これが釈迦にとっての解脱であったに違いありません。親鸞が「本願に遇う」というのはこのことでしょう。
 このあたりで手紙に戻りましょう。
 「どんな悪人も救われる」のだから「悪はおもうさまにふるまふべし」、この跳ね上がった考えを、親鸞は「ゆめゆめあるべからずさふらふ」と厳しく諌めていたのでした。「どんな悪人も救われる」のだから、「もとぬすみごゝろあらんひとも、極楽をねがひ、念仏をまふすほどのことになりなば、もとひがうたるこゝろ(間違った心)をもおもひなをして(思い直して)こそあるべき」と言うのです。
 さてしかしことは微妙です。「どんな悪人も救われる」から「どんな悪をしてもいい」となるのか、いや、「どんな悪人も救われる」から「これまでの間違った心を思い直そうとする」のか、どちらに転んでもそれぞれに自然なように思われます。この二つの道の分岐点はどこにあるのでしょう。
 「根源悪としての我執」への気づきがあるかどうか、ここが1丁目1番地です。「自分はまるごと我執である」という思いがあるかどうかです。つづく第2段で親鸞がどう言っているかを見てみましょう。


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