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『末燈鈔』を読む(その126) ブログトップ

わざとすまじきことを [『末燈鈔』を読む(その126)]

(13)わざとすまじきことを

 「〈おもはざるほかに〉すまじきことをもふるまひ」と「〈わざと〉すまじきことをもせば」とが対比されます。われらはもとより悪人だから、よいことをしなくちゃと思っていても、つい悪いことに手が出てしまうのと、悪いことをして何がいかんのかといわば確信犯的に悪いことをするのとの対比は実に分かりやすい。
 どうして「〈わざと〉すまじきことを」するのかと言いますと、「どんな悪人も救われる」からです。いや、「むしろ悪人こそ救われる」のであれば、「悪、恐るるに足らず」で、どんどん悪いことをしようじゃないかとなります。このこころの動きのどこに問題が潜んでいるのでしょうか。
 前に言いましたように、「どんな悪人も救われる」なら「どんな悪をしてもいい」となっても、あるいは「どんな悪人も救われる」のだから「悪いことはしないようにしよう」となっても、どちらも自然なように思われます。何が決め手になるかと考えますと、「どんな悪人も救われる」の受けとり方しかありません。
 「どんな悪人も救われる」なら「どんどん悪いことをしてやろう」となる場合、「どんな悪人も救われる」が「どんな悪いことをしても罰せられない」と受け止められているように思えます。何をしたって罰せられないなら、悪いことをしようじゃないか、という心の動きです。ここには打算しかありません。
 打算しかないということは、「どんな悪人も救われる」と聞いても、そこに胸の奥から突き上げるような喜びを感じていないということです。その人にとって「どんな悪人も救われる」ということばが法の条文のように受け取られていて、そこから冷静な頭で「ならば、遠慮なく悪いことをやらせてもらおう」と計算しているのです。


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