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他力のなかにまた他力と [『末燈鈔』を読む(その130)]

(2)他力のなかにまた他力と

 この手紙は、おそらく高田門徒の指導者・真仏房宛てだと思われますが(異本にそのような記載があります)、「他力のなかにある自力」と「他力のなかにある他力」についての問いかけに答えています。他力のなかに自力があることは聞いているが、他力のなかに他力があるとは聞いたことがないと。前者が「雑行、雑修、定心念仏」であることは、これまでの手紙でも繰り返し述べられてきましたので、もういいでしょう。
 問題は後者の「他力のなかに他力がある」ということです。
 第1通に「この信心をうるゆへにかならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ。この一心を金剛心といふ。この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり」とありましたが、その「他力のなかの他力なり」と、ここで「他力のなかにまた他力とまふすことはきゝさふらはず」と言っていることとの関連をどう理解すればいいのでしょう。
 「他力のなかの他力」という言い回しには特に不自然さは感じません。
 たとえば「王のなかの王」というのは、ほかの並みの王と比べものにならないくらい堂々たる王、文句なしの王といった意味でしょう。「他力のなかの他力」も、まじりっけなしの他力、完璧な他力ぐらいの意味で自然に頭に収まります。第19の願は「他力のなかの自力」だが、第18の願は「他力のなかの他力」であるという言い方に問題は感じられません。前者はまじりっけのある他力だが、後者は純粋な他力ということです。
 としますと、「他力のなかにまた他力とまふすことはきゝさふらはず」はどういうことでしょう。ここには他力と自力の関係をどう捉えるかをめぐる、かなり微妙な問題が含まれているような気がします。


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