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誓願にあひたてまつりて [『末燈鈔』を読む(その137)]

(9)誓願にあひたてまつりて

 この手紙は随信房に宛てられています。手紙の後半で「この御ふみぬしの御名は、随信房とおほせられさふらはゞ、めでたふさふらふべし」と、いい名前であることよと喜んでいます。常陸国奥郡(おうぐん、茨城県の北部)の慈善房の門弟だったようです。親鸞宛ての手紙で、信心をえたそのときに「弥勒菩薩とおなじくらゐ」になるということ、「仏とひとし」ともいうことについて自分の了解を述べ、親鸞に裁可を仰いだものと思われます。親鸞は「この御ふみのかきやう、めでたくさふらふ」と手放しで褒めています。
 この論点はこれまでの手紙でもう出尽くしていると言ってもいいですが、ここで改めて味わいたいのは、「信楽開発の時刻の極促」(『教行信証』信巻)のありようについてです。親鸞はこう言っていました、「弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこゝろのさだまるとき、摂取してすてられまいらせざるゆへに、金剛心になるときを正定聚のくらゐに住すともまふす」と。
 短い文のなかに大事なキーワードがすべて盛り込まれ、もうこれだけで親鸞浄土教の要点が言い尽くされているともいえるのではないでしょうか。「弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて」、「信心をたまはりて」、「摂取してすてまひらせざる」、「正定聚のくらゐに住す」と絢爛豪華です。なかでも「誓願にあひたてまつりて」という言い回しに注目したいと思います。
 この言い回しは極めて珍しいのではないでしょうか。すぐ頭に浮かぶのは『教行信証』の序に「ああ、弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく」とあることです。その少しあとにも「あひがたくしていまあふことをえたり」とありますが、それは「西蕃月氏の聖典、東夏日域の師釈」に「あひがたく」ということです。親鸞のすべての書き物をきちんとあたったわけではありませんが、それ以外に「誓願にあふ」という文言はあるでしょうか。


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