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『末燈鈔』を読む(その141) ブログトップ

第2段 [『末燈鈔』を読む(その141)]

(13)第2段

 第18通の第2段です。

 御同行の、「臨終を期して」とおほせられさふらふらんは、ちからおよばぬことなり。信心まことにならせたまひてさふらふひとは、誓願の利益にてさふらふうへに、摂取してすてずとさふらへば、来迎臨終を期せさせたまふべからずとこそおぼえさふらへ。いまだ信心さだまらざらんひとは、臨終をも期し、来迎をもまたせたまふべし。
 この御ふみぬしの御名は、随信房とおほせられさふらはゞ、めでたふさふらふべし。この御ふみのかきやう、めでたくさふらふ。御同行のおほせられやうは、こゝろえずさふらふ。それをばちからおよばずさふらふ。あなかしこあなかしこ。
  十一月廿六日                           親鸞
 随信御房

 (現代語訳)御同行が「臨終を期して」と言われているそうですが、如何ともしがたいことです。信心が真実のものになった人は、誓願のご利益として、摂取してすてないと言われているのですから、来迎や臨終を期すことはありません。まだ信心の定まらない人は、臨終を期し来迎を待たれらよろしい。
 このお手紙を書かれたあなたは随信房と名のられているようですが、いい名だと思います。この手紙の内容も結構です。しかしご同行の方が言っておられることは納得できません。如何ともできません。謹言。

 随信房の同行に、いまだ信心がさだまらず、「臨終をも期し、来迎をもまたせたまふ」人がいたようで、その人にどう接すればいいかを親鸞に問い合わせたものとみえます。親鸞はそれに対して「ちからおよばずさふらふ」と答えています。


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