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むかしの本願がいまはじまる [『末燈鈔』を読む(その150)]

(7)むかしの本願がいまはじまる

 「十劫正覚のはじめより(十劫の昔に法蔵菩薩が正覚をえて阿弥陀仏となられてから)、われらが往生を、弥陀如来のさだめましましたまえることを、わすれぬがすなわち信心のすがたなり」という考えのどこに問題があるかは、文字面からだけではなかなか了解できないかもしれません。これは『無量寿経』に説かれていることを忠実になぞっているとも言えるからです。
 蓮如はしかしこれを「他力の信心をえたる分はなし」と切り捨てます。その理由として、これは十劫正覚について「しりたりというとも」、肝心の「他力の信心のいわれをよくしら」ないことが上げられていますが、さてしかし「他力の信心のいわれをよくしる」とはどういうことかは述べられていませんので、ここから先はぼくら自身が考えなければなりません。
 これまで何度も引き合いに出してきました曽我量深氏の名言「むかしの本願がいまはじまる」をいま一度参照したいと思います。
 「むかしの本願がむかしのままである」か、それとも「むかしの本願がいまはじまる」か。前者は十劫正覚について知ってはいるが、そこに真実の信心がないということで、後者は十劫正覚が十劫のむかしのことではなく、いまわが身に起こっているということです。しかし十劫正覚を十劫正覚として知るのと、それがいまわが身に起こるというのはどう違うのでしょう。
 デンマークの哲学者キルケゴールに「主体的真理」ということばがありますが、これを手がかりに考えたいと思います。
 真理は客観的でなければなりません。一部の人だけでなく、みんなが納得してはじめて真理と言えます。しかしキルケゴールは他の人には何の意味もないことであっても「このわたしがそれによって生き、それによって死ねるような真理」を求め、それを主体的真理とよびました。「むかしの本願がいまはじまる」とき、本願はそのような主体的真理となっているのではないでしょうか。


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