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ひとへに親鸞一人がため [『末燈鈔』を読む(その152)]

(9)ひとへに親鸞一人がため

 客観的真理と主体的真理。前者はみんなに賛同してもらわなければなりませんが、後者は他のみんながどう言おうと、「わたしがそれによって生き、それによって死ぬことができる」ものです。弥陀の本願はそのような主体的真理ではないでしょうか。それを単なる客観的真理としてみるのでは、「他力の信心をえたる分はなし」です。ここで思い出すのが親鸞のあの有名な述懐です。
 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」。
 客観的真理はみんなのためにあるものでしょう。みんなが安心してそれに頼れる真理です。しかし主体的真理は、たとえ他のみんなには何の役にも立たなくても、「わたしがそれによって生き、死ぬことができる」のです。そのときわたしは単独者となっています。そしてそのとき単独者としてのわたしがはじめて他者と遇うのです。いや、より正確には、他者と出遇うことができてはじめて単独者となると言うべきでしょう。
 ぼくらはみずから単独者となることはできません。思いがけず他者に出遇うことではじめて単独者になっている自分に気づきます。親鸞は弥陀の本願という他者に出遇ってはじめて親鸞一人になっていることに気づいたはずです。周りにどれほどたくさんの人がいるとしても、親鸞一人が本願と対面するのであり、それが「むかしの本願がいまはじまる」ということです。
 造悪無碍に戻りますと、「むかしの本願がいまはじまる」ときには、「もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこゝろをもひるがへ」そうと思いこそすれ、「われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもおもひ、いふまじきことをもいひなどすること」などあるはずがありません。それは本願を客観的真理として利用しようとしているのであって、主体的真理となっていないと言わなければなりません。


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