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法然の弟子たち [『末燈鈔』を読む(その154)]

(11)法然の弟子たち

 第2段で造悪無碍について厳しく咎めたあと、この第3段では法然上人の教えがゆがめられて伝えられていることを嘆いています。「この世の念仏の義はやうやうにかはりあふてさふらふ」と言い、「聖人の御弟子にてさふらへども、やうやうに義をもいひかへなどして、身もまどひ、人をもまどはかしあふてさふらふ」ことを「あさましきことにてさふらふなり」と嘆息しています。
 ここで法然の主な弟子たちについて簡単にみておきましょう。
 東大寺僧の凝然によりますと、法然亡きあと、幸西(こうさい)、隆寛、弁長、証空、長西(ちょうさい)の五人が専修念仏の中心にいたようです。親鸞の名がないのはどうしたことかと思われるかもしれませんが、親鸞は越後流罪のあと京に戻らず常陸の国におりましたので、その存在はまったく世に隠れていたのです。その後も長く世に知られないままでした。今日、浄土真宗といえば、日本最大の宗派ですが、その基を築いたのは第8代の蓮如であり、それまではあるかなきかの存在でした。
 さて上の五派の中で、幸西は一念義で、隆寛の多念義と対立しました。念仏は信心決定の一念で足りるか、行住坐臥の念仏かの対立です。そして長西は諸行本願義と呼ばれ、第十八願の念仏だけではなく、諸行によっても往生できると唱えました。以上の三つは遅い早いの差はあれ姿を消していき、今日まで残るのは弁長の鎮西(ちんぜい)浄土宗と証空の西山浄土宗です。中でも鎮西派が浄土宗の主流で、今日浄土宗と言えば鎮西派を指すと言ってもいいでしょう(鎮西派とは、弁長は郷里の九州にもどって布教したことからこう呼ばれます)。
 親鸞の目には、法然亡きあと、その弟子たちが「やうやうに義をもいひかへなどして、身もまどひ、人をもまどはかしあふて」いると映っていたのでしょう。


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