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自力と他力 [『末燈鈔』を読む(その155)]

(12)自力と他力

 今日まで続いている鎮西浄土宗と西山浄土宗について見ておきますと、その対立は自力・他力に関わります。鎮西派は往生には「他力だけではなく自力も」必要と主張し、西山派は「他力のみ」と主張するのです。
 鎮西派の言い分はこうです。もしすべてが他力によるとすれば、弥陀正覚が成就した十劫のむかしに一切衆生の往生が決定したはずではないか。然るに、往生できるものとできないものがいるのはどういうことか。ここから明らかなように、往生は本質的には「弥陀の本願」によるとしても、少なくともそこに「われわれの信心と念仏」がなければ本願も働きようがない。弥陀の働き(他力)とわれわれの働き(自力)の両者が揃ってはじめて往生が実現されるのだと。
 いかがでしょう、いかにも筋が通っていて、きわめて常識的と言えます。しかしこれは親鸞浄土教とはまったく異質でしょう。親鸞の立場は「他力のみ」で、その点では西山派と共通しています。たとえば『安心決定鈔』という書物があり、おそらく西山派の学僧が書いたと考えられていますが、これは浄土真宗において高く評価されています(たとえば蓮如はこれを重視し、みずから書写しています)。
 さて「他力だけでなく自力も」のどこに問題があるのでしょう。「われわれの信心と念仏」があってはじめて本願が働くことができるというのは当然ではないでしょうか。
 浄土真宗に「機法一体」ということばがあります。蓮如の「御文(おふみ、手紙の形式で真宗の教えを分かりやすく説いた文章)」に「南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに阿弥陀仏という四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり」とありまして、衆生の信心(機)と弥陀の本願(法)は「南無阿弥陀仏」の中に一体となっているというのです。これを手がかりに考えていきましょう。


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