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『末燈鈔』を読む(その160) ブログトップ

第20通 [『末燈鈔』を読む(その160)]

           第11章 くすりあり、毒をこのめと

(1) 第20通

 第20通もかなり長い手紙ですが、その内容は第19通とほぼ同じですので、一気に読んでしまいましょう。

 方々よりの御こゝろざしのものども、かずのまゝにたしかにたまはりさふらふ。明教房ののぼらせてさふらふこと、ありがたきことにさふらふ。かたがたの御こゝろざし、まふしつくしがたくさふらふ。明法御房の往生のこと、をどろきまふすべきにはあらねども、かへすがへすうれしくさふらふ。鹿嶋・なめかた・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにてさふらふ。またひらつかの入道殿の御往生のことをきゝさふらふこそ、かへすがへすまふすにかぎりなくおぼえさふらへ。めでたさまふしつくすべくもさふらはず。をのをのみな往生は一定とおぼしめすべし。
 さりながらも往生をねがはせたまふひとびとの御なかにも御こゝろえぬこともさふらひき。いまもさこそさふらはめとおぼえさふらふ。京にもこゝろえずしてやうやうにまどひあふてさふらふめり。くにぐににもおほくきこえさふらふ。法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゝしき学生などゝおもひあひたるひとびとも、この世にはみなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあふてさふらふめり。聖教のおしへをもみずしらぬ、をのをののやうにおはしますひとびとは、往生にさはりなしとばかりいふをきゝて、あしざまに御こゝろえあること、おほくさふらひき。いまもさこそさふらふらめとおぼえさふらふ。浄土の教もしらぬ信見房などがまふすことによりて、ひがざまにいよいよなりあはせたまひさふらふらんをきゝさふらふこそあさましくさふらへ。まづをのをのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をもまふさずおはしましさふらひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもきゝはじめておはします身にてさふらふなり。もとは無明のさけにゑひふして、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみこのみめしあふてさふらひつるに、仏のちかひをきゝはじめしより、無明のゑひもやうやうすこしづゝさめ、三毒もすこしづゝこのまずして、阿弥陀仏のくすりをつねにこのみめす身をなりておはしましあふてさふらふぞかし。しかるに、なをゑひもさめやらぬに、かさねてゑひをすゝめ、毒もきえやらぬに、なを毒をすゝめられさふらふらんこそ、あさましくさふらへ。煩悩具足の身なればとて、こゝろにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、くちにもいふまじきことをもゆるし、こゝろにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこゝろのまゝにてあるべしとまふしあふてさふらふらんこそ、かへすがへす不便におぼえさふらへ。ゑひもさめねさきになをさけをすゝめ、毒もきえやらぬに、いよいよ毒をすゝめんがごとし。くすりあり、毒をこのめとさふらふらんことは、あるべくもさふらはずとおぼえ候。仏の御名をもきき、念仏をもまふして、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとふるしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしもさふらふべしとこそおぼえさふらへ。はじめて仏のちかひをきゝはじむるひとびとの、わが身のわろくこゝろのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこゝろの善悪をばさたせず、むかへたまふぞとはまふしさふらへ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこゝろふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をもこのみまふしなんどするひとは、もともこゝろのまゝにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころすてむとおぼしめしあはせたまはゞこそ、世をいとふしるしにてもさふらはめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すゝめによりておこるとこそみえてさふらへば、さりともまことのこゝろおこらせたまひなんには、いかゞむかしの御こゝろのまゝにては候べき。
 この御なかのひとびとも少々はあしきさまなることのきこえ候めり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきゝ候こそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり、なれむつぶべからず。『浄土論』とまふすむふみには、かやうのひとは仏法信ずるこゝろのなきより、このこゝろはおこるなりと候めり。また至誠心のなかには、かやうの悪をこのまんには、つゝしんでとをざかれ、ちかづくべからずとこそとかれて候へ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそときをかれて候へ。悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまいりてのち衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたしみ、ちかづくことは候へ。それもわがはからひにはあらず、弥陀のちかひによりて御たすけにてこそ、おもふさまのふるまひもさふらはんずれ。当時はこの身どものやうにては、いかゞ候べかるらんとおぼえ候。往生の金剛心のおこることは仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり、善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。
 このふみをもて、かしま・なめかた・南の庄、いづかたもこれにこゝろざしおはしまさんひとには、おなじ御こゝろによみきかせたまふべく候。あなかしこあなかしこ。
 建長四年二月廿四日

 (現代語訳)あなた方からのお志を、確かにまちがいなく頂きました。明教房が上京してくれましたことは、有難いことです。あなた方のお志、申しようもなく嬉しく思います。明法房が往生されましたことは、驚くことではありませんが、返す返す嬉しく思います。鹿嶋・行方・奥郡などの方々で往生を願っておいでのみなさんのお慶びでありましょう。また平塚の入道殿が往生されたとお聞きしまして、返す返す申しようもなく嬉しく思います。みなさんの往生もまちがいないことです。
 しかしながら、往生を願っておいでになる方々の中にも心得違いをしている人がいらっしゃいましたし、今もそうだろうと思います。京でも心得違いをして様々に惑いあっておられるようです。いなかでも多くおられると聞きます。法然上人のお弟子の中で、自分はひとかどの学者だと思っておられる人々も、今はみな様々に教えを言い換えて、自分も惑い、人も惑わして、悩みあっておられるようです。浄土の経典の教えをみずしらないあなた方のような人たちは、どんなことも往生に障りがないということだけを聞いて、誤って理解されていることが多々ありました。今もそうだろうと思います。浄土の教えを知らない信見房などが言うことによって、いよいよおかしなふうになってしまっているとお聞きするさえ浅ましいことです。まず皆さん方は、昔は弥陀のお誓いも知らず、阿弥陀仏の御名を称えることもありませんでしたが、釈迦・弥陀の御方便にもよおされて、今は弥陀のお誓いを聞き始められたところです。もとは無明の酒に酔いふして、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒を好んで食べあっておられましたが、仏のお誓いを聞き始めてから、無明の酔いも少しすつ醒め、三毒も少しずつ好まず、阿弥陀仏の薬をいつも好む身となってこられたはずです。しかるに、まだ酔いも醒めきらないのに、また酔いを重ね、毒も消えきらないのに、なお毒を飲もうとしておられるようですが、浅ましいことです。煩悩具足の身だからと言って、心のままに、身はしてはいけないことをし、口は言ってはいけないことを言い、心は思ってはいけないことを思って、どのようにでも心のままに振る舞っていいのだと言いあっておられるようですが、返す返す哀れなことです。酔いもさめないうちになお酒を飲み、毒も消えないうちに、いよいよ毒を食べるようなものです。薬があるから毒を好め、などということはあってはならないことです。仏の御名を聞き、念仏をも称えるようになってかなり経った人たちは、この世の悪を厭い、この身の悪も厭い捨てようというしるしもあるものと思います。はじめて仏の誓いを聞いた人たちは、わが身が悪く心も悪いことを思い知って、この身のようではどうして往生できようかと思うものですから、われらは煩悩具足の身ですから、わが心の善し悪しにかかわらず、迎えていただけると申しているのです。このように聞き、仏を信じようと思う心が深くなりますと、本当にこの身を厭い、生死の世界を流転していることを悲しんで、深く誓いを信じ、阿弥陀仏の御名を好んで称えるようになるのですから、もとは心の赴くままに悪いことを思い、悪い振る舞いなどもしていましても、今はそのような心を捨てようと思われてこそ、世を厭うしるしというものです。また往生かなうという信心は、釈迦・弥陀の御すすめによって起こると説かれていますから、まことの心が起こりました以上は、どうしたって昔の心のままでいるはずはありません。
 そちらにおられる方々についても少々悪いうわさが流れているようです。師を謗ったり、善知識を軽んじ、同行も侮ったりしあっておられる由聞こえてきますのは浅ましいことです。そのような人は謗法の人で、五逆の人です。慣れ親しむべきではありません。『浄土論』には、そのような人は仏法を信じる心がないから、こんな心が起こるのだと書いてあります。また至誠心を説く中に、このような悪を好む人からは謹んで遠ざかり、近づくべきではないと説かれています。善知識や同行には親しみ近づくようにと説かれています。悪を好む人に近づくということは、浄土へ往かせていただいたのち衆生利益のために帰ってきてから、そのような罪人にも親しみ近づくことはありましょう。それも自らのはからいによるのではなく、弥陀の誓いによるお助けがあってこそ、思うままの振る舞いもできるというものです。今のわれわれとしましては、どう振る舞うべきでしょうか。よくよくお考えいただきたいと思います。往生かなうとの金剛のように堅い信心が起こるのも仏のおはからいによるのですから、そのような金剛心を持たれた人は、よもや師を謗ったり、善知識を侮ったりするようなことはないと思います。
 この手紙を、鹿嶋、行方、南の庄の、念仏にこころざしのある方々に、同じ心で読み聞かせていただきますように。謹言。


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