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ひとを千人ころしてんや [『末燈鈔』を読む(その162)]

(3)ひとを千人ころしてんや

 唯円の説き方が微妙になるのは、「どんな悪人も救われる」という本願があることと、しかしだからと言って「どんな悪をしてもいい」ことにはならないということの「あわい」が微妙だからです。その「あわい」から、一方では「どんな悪人も救われるのだから、悪をおそれることはない」と悪人ぶる人がでてきますが、他方には「悪をおそれないようなものは往生できない」と善人ぶる人もでてくるのです。
 どちらも、善をなそうとして善をなし、悪をなそうとして悪をなすことができると考えていますが、実際は善をなそうとして悪をなし、悪をなそうとして善をなすのがわれらだと唯円はいうのです。ここで有名な話が登場します。「ひとを千人ころしてんや」というあの話です。「ひとを千人殺すことができれば往生できる」としても、だからと言って、そんなことができるはずがありません。それは「わがこころのよくてころさぬにはあらず」「業縁なきによりて害せざる」だけです。
 そこから唯円は「よきこともあしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらすればこそ、他力にてはさふらへ」と言います。
 これから本願と倫理の関係について考えていきたいと思います。「どんな悪人も救われる」という本願と「もろもろの悪をなすなかれ(諸悪莫作)」という倫理と。よく言われるのは、倫理的立場の行き着く果てに本願の世界が広がるということです。もっと一般的に、倫理的な生き方が行き詰るところに宗教の生き方が開けると言われます。倫理的に生きようとしてその限界に突き当たり、その絶望の果てから宗教の世界が開かれると。
 この見方では、宗教は倫理を突き抜けた先にあり、ヘーゲル流の言い方をしますと、倫理的な生き方がアウフヘーベンされて、宗教という最高の生き方が実現することになります。キルケゴールも、実存のあり方は、美的実存、次いで倫理的実存、そして最後に宗教的実存というように、次々と止揚されて上の段階へと移っていくと述べています。


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