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宗教と倫理 [『末燈鈔』を読む(その163)]

(4)宗教と倫理

 ヘーゲル的な見方では、宗教は倫理を超越しています。「よきこともあしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらす」という宗教は、もはや倫理を突き抜けているということです。倫理的な生き方では善と悪との激しい闘いに翻弄されますが、その嵐を潜り抜けて静かで穏やかな宗教の境地にたどり着くというイメージです。このイメージが広く一般に流布しているのではないでしょうか。
 たとえば「悟り」のイメージ。涅槃寂静ということばからも、心が何の葛藤もなく波立つこともないおさまりかえった状態が浮かび上がります。
 久しく会っていない友人から「やあ、いま何をしてる」と尋ねられ、「文化センターで親鸞の講座を開いているよ」と答えますと、「へえー」という顔をされることがよくあります。かれの中にあるぼくは、かなり政治的な発言もし、組合活動もしていた社会派の教師ですが、そんなぼくが文化センターで親鸞について語っていることは意外に思われるのでしょう。知らないうちに「宗教におさまりかえっている」と感じられたのに違いありません(実際、ある人からそんなふうに言われたことがあります)。
 転向のイメージです。社会派から足を洗って、宗教の世界に転向する(あるいは逃避する)。
 しかし宗教とは果たしてそのようなものでしょうか。実際のところ、ぼくは社会派から足を洗ったという自覚はまったくありません。高校教師を退職してからは、これと言って社会派的なことをやっているわけではありませんが、でも関心は激しく社会に向かっています。政治への関心はいささかも薄らいでいません。
 それに、そもそも親鸞への興味は最近になって生まれてきたものではなく、高校生時代から一貫して続いています。若い頃からぼくの心は社会や政治へ向かうと同時に、宗教へも向いていたのです。そのことはぼくにとって何ら不自然ではなく、この二つは微妙なバランスの上に共存していたのです。


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