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第21通 [『末燈鈔』を読む(その170)]

        第12章 法蔵菩薩われらに廻向したまへり

(1) 第21通

 安楽浄土にいりはつれば、すなはち大涅槃をさとるとも、また無上覚をさとるとも、滅度にいたるともまふすは、御名こそかはりたるやうなれども、これみな法身とまふす仏のさとりをひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかひを、法蔵菩薩われらに回向したまへるを、往相の回向とまふすなり。この回向せさせたまへる願を、念仏往生の願とはまふすなり。この念仏往生の願を、一向に信じてふたごゝろなきを、一向専修とはまふすなり。如来二種の回向とまふすことは、この二種の回向の願を信じ、ふたごゝろなきを、真実の信心とまふす。この真実の信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべし。あなかしこあなかしこ。

 (現代語訳)安楽浄土に入り終われば、直ちに大涅槃を悟るとも、無上覚を悟るとも、滅度に至るとも言い、そのことばこそ違いますが、みな法身とよばれる仏の悟りを開くのですが、その正因として弥陀仏の御誓いを法蔵菩薩がわれらに回向してくださったことを往相の回向と申します。この回向してくださった願を念仏往生の願と申します。第十八願のことです。この念仏往生の願を、二心なく一向に信じるのを、一向専修と申すのです。往相回向と還相回向を如来の二種の回向と言いますが、この二種の回向の願を信じて二心のないことを真実の信心と申します。この真実の信心が起こるのは、釈迦・弥陀の二尊の御はからいによるのだとお心得ください。謹言。

 ここには日付けも宛名もありませんが、『御消息集善性本』では、この手紙の末尾に「二月二十五日 親鸞 浄信御坊 御返事」とあります。これが正しいとしますと、第7通、第10通、第15通の宛先である浄信房への手紙ということになります。(『御消息集善性本』では第7通とこの第21通が合体して一通の手紙になっています。)


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