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『末燈鈔』を読む(その172) ブログトップ

自由ということ [『末燈鈔』を読む(その172)]

(3)自由ということ

 この制度は、結局のところ、税金で障害者の生活を支えるということではないかという批判があるかもしれませんが、生活保護で支えるよりも、障害者を社会に受け入れ、その自立を支援することになるのではないでしょうか(この方式の方が生活保護より安上がりになるそうですからなおさらです)。何より、障害者自身が能動性、主体性、自由を感じることができます。
 ぼくらにとって能動的であること、主体的であること、自由であることは死活的に大事なことです。
 さてしかし、回向について言いますと、ぼくらは回向するのではなく回向される、与えるのではなく与えられるのですから、要するに自由ではないということです。与えるか与えないかは自分で決めることができますが、与えられるか与えられないかはぼくらの裁量を超えています。親鸞のコペルニクス的転回を受け入れることができるかどうかは、このことをどう了解するかにかかっています。
 遠回りのようでも、ここで自由ということについて考えておかなければなりません。
 自由であることは、ぼくらにとって死活的に大事だと言いましたが、にもかかわらず、自由であることはどう頑張っても証明できません。自由とは、ぼくがキーボードのJというキーを叩くことも叩かないこともできるということですが、もしJを叩いてしまいますと、そのときJを叩かないことはできませんし、もしJを叩きませんと、そのときJを叩くことはできません。ぼくにはJを叩くことも叩かないこともできることをどうにも証明できないのです。
 しかし、証明できないからと言って自由がないということには決してなりません。何より、ぼくらは自由だという揺るぎない感覚がありますし、現にぼくらのすることに責任を問う以上(責任を問わなくていいと言う人はいるでしょうか)、ぼくらは自由だということです。自由がないところに責任を問うことはできませんから。


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